海 底 遊 歩 人

1993年10月31日〜94年5月29日(1〜6本)
BACK

正確にいつ始めたのか記録が無いが、名古屋市天白区平針に有ったグロットに通い始めたのは93年の9月ごろだったと思う。
当時会社の仲間の間でダイビングが流行り始め、私も「二泊三日で取れる」と誘われたが、泳ぎに自信はないし、二泊三日は余りにイージーな気がしたので幾つかの専門店を回ってたどり着いたのがここだった。
ここはひげのマスター個人経営の小さな店だが、自前のダイビングプールを持っていて、「好きなだけ練習して良いと言う」おおらかな店だった。
指導団体はSEA(SCUBAPRO EDUCATIONAL ASSOCIATION)と言う、S-PROの販売網兼指導団体であった。

やってみて驚いたのは、二泊三日どころではない、好きなだけ泳いでよいでもなく、徹底的に指導する厳しい学校だった。何回プール練習をしたことか。

結局海には入れたのは10月末で、それも最終テストの「水深10メートルへスキンダイブしてウエイトを置いて、とって来い」をパスできず、「ここにカードはあるが私が良いと言うまで渡さぬ」と。やっとの事でプール試験をパスしてカードをもらったのは11月末か12月だった。

右のカードでは発効日が海洋実習二回目の93年11月7日となっていて、その数日後に見せてもらったが、実際に卒業して手渡してもらえたのは、ずっと後のこと。



当時から、冬はスキーと決まっていたので、スキーシーズンを経て、翌年の5月、初のFunDiveとあいなった。

伊勢の南側にある方座浦。
イセエビとにらめっこしたりなかなか楽しいダイビングだった。

でもこのとき同行の一人、二泊三日でカードを取った口だけど、本数は10数本いっている子が、私の隣で突然浮き始め、明らかに慌てだしたのだ。
まずいっと思って、彼女に飛びついて上昇速度を抑えたところに周りの先輩たちがよってたかって、浮力コントロールして事は収まったのだが、自分自身なかなか落ち着いていたなと感心することしきり。
やはり面倒でも繰り返しプール練習して自信をつけた結果の賜物であろう。

この時には既に北京駐在は決まっていて、その後しばしばたばたした後の7月、中華航空の残骸を見ながら名古屋小牧空港を飛び立った。ダイビングにはオサラバトなってしまった。



尚、グロットのひげのマスターも亡くなられ、店も人手に渡ったと聞いた。
サイパンに二号店を作るのだと頑張っておられたが、無理がたたったのかもしれない。

1993年10月31日 大瀬崎 1本目ログ2本目ログ
1993年11月7日 大瀬崎 1本目ログ2本目ログ
1994年5月29日 伊勢 方座浦 1本目ログ2本目ログ

BACK